このウェブページでは、『史記 扁鵲・倉公列伝 第四十五』の3について現代語訳を紹介しています。
参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)
[『史記 扁鵲・倉公列伝 第四十五』のエピソードの現代語訳:3]
こうして、扁鵲(へんじゃく)は弟子の子陽(しよう)に言い付けて鍼(はり)を砥石(といし)で研がせて、太子の身体の外面にある三陽(手足にある3つの陽のツボ)・五会(五臓につながるツボ)に鍼を打った。しばらくすると、太子は蘇生した。
そこで弟子の子豹(しひょう)に言い付けて、五分の熨(い=膏薬・こうやく)をつくり、それを八減の剤で煮させて、太子の両脇の下にかわるがわる貼付した。太子は寝起きできるようになった。そこでさらに、陰陽を調節して煎薬を20日の間、服用させただけで、太子は元通りになった。
それ故、天下の人々はみな、扁鵲は死人を蘇らせることができると思った。しかし、扁鵲は言った。
「私は死人を生き返らせることができるわけではない。あれは自ら当然生きているべきもので、私はただ起き上がらせてやっただけのことです。」
扁鵲は斉に行った。斉の桓侯(桓公午)は彼を賓客として待遇した。扁鵲は参内して桓侯に謁見して言った。
「殿には病気がおありになり、いまは肌の理(きめ)にとどまっていますが、治療しないとさらに深く入り込んでいくことになります。」
「わしには病気などはない。」
扁鵲が退出すると、桓侯は左右の者に言った。
「あの医者の利益を好むことといったらないな。病気ではないものを病人にして、自分の手柄にしようとするのだから。」
五日後、扁鵲は再び桓侯に謁見して言った。
「殿には病気がおありになり、いまは血脈にとどまっておりますが、治療しないとさらに深く入り込むことになるでしょう。」
「わしには病気などはない。」
扁鵲は退出した。桓侯は不快な様子だった。その五日後、扁鵲はまた桓侯に謁見して言った。
「殿には病気がおありになり、いまは腸胃の間にとどまっておりますが、治療しないとさらに深く入り込むでしょう。」
桓侯は返事もしなかった。
そして、扁鵲が退出するとますます不快な様子であった。その五日後、扁鵲はまたまた謁見したが、遠くから桓侯を眺めただけで退出して走り去った。桓侯が人をやってその理由を尋ねさせると、扁鵲は言った。
「病気が肌の理にあるうちは、煎薬や膏薬で治せます。血脈にあるうちは、鍼(かねばり)や石針で治せます。腸胃にあるうちは、酒ロウ(酒で煎じた薬)で治せます。ところが骨髄まで入り込みますと、司命(しめい、人の生死を司る星)でも、もはやどうすることもできません。いま、殿の病気は骨髄にあります。ですから、私には何も申し上げることがないのです。」
それから五日後、桓侯は身体が痛み出した。人をやって扁鵲を召したが、扁鵲は逃げ去っていた。桓侯は遂に死んだ。
人が病気のかすかな兆候に早く気づいて、名医に早くから治療してもらえば病気は治せるし、身は活きることができる。人が心配するのは病気の多いことであり、医者が心配するのは療法の少ないことである。
それ故、病気には6つの不治がある。驕恣(きょうし)で道理に従わないのが一の不治である。身を軽んじて財を重んじるのが二の不治である。衣食を適当にし得ないのが三の不治である。陰陽が五臓に併存して、気が安定しないのが四の不治である。
身体が衰弱しきって、薬を服用できないのが五の不治である。巫女を信じて医者を信じないのが六の不治である。この一つでもある者は、病気を治すことがとても困難である。
扁鵲の名声は天下に聞こえた。邯鄲(かんたん)に行くと、その地では婦人を尊ぶと聞いて婦人病の医者になった。洛陽に行くと周の人は老人を敬愛すると聞いて、耳・目・冷え症の医者になった。咸陽にやって来ると、秦の人は小児を愛すると聞いて、小児の医者になった。
土地の習俗に従って、自在に変わったのである。秦の太医令(侍医の長)の李キ(りき)は、自分の技倆が扁鵲に及ばないと知ると、人をやってこれを刺殺させた。しかし現在に至るまで、脈について論ずる者は、すべて扁鵲の流れを汲んでいる。
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